名人とは

丸山 悦子 

2011年05月29日 00:06

<リーダーの才>
今日の加速度的に進んだ科学技術で得た生活の便利さとは裏腹に、どうしてこんなに私達は将来が不安なのでしょう。

原発の事故では人災というべき管理システムの不備がありました。
的を射た施策は至難なのでしょうか。

中国では古くから長きに渡り、即ち、隋の文帝から清時代までの1300年間(図)、官吏になるための科挙という極めて難しい試験制度が行われていました。

合格するには経典学問や詩作などずば抜けた才能が必要とされ、人々は難関を競いました。

それだけ国を治めていくことには厳しい人物評価が大切ということですね。

<詩才溢れるも猛虎になった>
私が小学生の時、国語の教科書に「山月記」が載っていました。これは中国の古書を題材とした中島敦の作品です。

主人公である唐の李徴は官吏登用試験に若くして合格し、名声を得ました。が大官におもねる役人としての出世コースを嫌い、詩家として後世に名を残したいと思うようになりました。

しかし自分の才能を信じ修行に没頭したものの他人が認めるような一流の作品は簡単には出来ません。
もはや自分より劣っていたような同輩も既に高位についています。

とある日、人食い虎に変じている自分に気付きます。日々人間としての心の時間が失せていきます。

その博学才頴の李徴が「なぜ自分は猛獣になってしまったのだろう」と問うていたのがやがて「なぜ自分は以前人間だったのだろう」と考える自らの虎の脳に驚愕します。

悲愁しその変貌を羞恥します。

それでも毎夜、僅かに残る人間の脳である時間を詩作に向けます。

ある日、虎の李徴は山道でかつての唯一の友に出会います。

叢中に姿を隠したままその友に、人間である時間のうちに作った詩を都へ持って帰ってくれるよう頼むのでした。

長安の都の書家や識者の机の上に自分の詩集が置かれることをまだ夢みているのです。妻子の生活を心配することよりもーー。

小学生の私にたまらなかったのは「帰りは決してこの道を通らないでくれ、襲って食ってしまうから」と行列を率いている友に頼むところでした。

その友は虎が詠む即興の詩の素晴らしさに感嘆しつつも「何かが足りない・・・」と思うのでした。

<不射の射>
とりわけ味わいのある中島敦の作品は「名人伝」です。

官吏になれなかった趙の邯鄲(かんたん)(図)の紀昌は天下一の弓の名人を志します。

紀昌は弓矢を手にすることが許されないまま五年間、師に言われたとおりに目の基礎修行を行ない遂に目に蜘蛛が巣を張るほどになりました。
やがて、百発百中させるという師をも越えるようになります。

そこで紀昌は伝え聞いた、山の頂に住むという弓の名人、老隠者のところに赴きます。

紀昌は技を見せようと5羽の鳥を同時に射止めます。

老師は「そなたはなかなかの腕前じゃが、所詮、射の射というもんじゃのう」と言って、今度は自分はゴマ粒ほどに天高く飛ぶ鳥を矢も弓も無くして射落としました。

私の洋弓の経験では矢を放った瞬間に既に、正鵠を得られることが、その命中度が身体で分かることがありました。

それゆえに弓や矢がなくとも、命中すべく絞り込みと放った瞬間の全身の血肉のせめぎあいは、素手にして再現することが可能のようにも思われます。

とはいっても私がどんなに頑張ろうとも、矢無しの射で的に射られたあとが残ることは有りようも無きことです。
愚者の射ですね。

紀昌は九年の歳月を老師に学び、山を下り邯鄲にもどります。

都の師は紀昌のその木偶の如き愚者の如き、かつての精悍さの微塵もない顔つきをみて「おお!足元にも及ばぬ天下の名人となった」と感嘆したのでした。

人々は名人の名人と誉めそやします。鳥は紀昌の家の上は避けて飛ぶようになりました。

しかし紀昌は一向に弓を引きません。

そして40年が経ちました。

やがて紀昌は耳は目の如く、鼻は口の如く、目は鼻の如くとなり、我と彼との区別も付かなくなりました。
弓や矢をみて、それは何か?何に使うものか、と問うのでした。

真の名人となった紀昌の心は弓への執着から離れ、遂には弓そのものを忘れ去るに至ったのでした。

紀昌が静かに煙の如くこの世を去ったあと、邯鄲の都中の達人が、楽師は弦を、画師や書家は筆を、工人は規矩をしまい隠し、使うことを恥じた、とのことです。

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